
手に持ち、心を鎮めて座っていると、
十字のシャープなリラ色の光が、ぶつからんばかりに迫ってきたかと思うと、
自然とひとつとなった意識は拡大し、
ふわっと・・・明るさが世界を包み、そして視界が一段とあがったような、視野が拓けた感じをもたらす。
そしてその自身の世界に、それまで自分自身もそうであったように、源から離れた一つ一つの生命の在り方が
その存在の響きで道を創り、活動しているさまがぼんやりと映ってきた。
それはまるで、子供たちが思い思いに行きたいところへと自由に進んできている様子であり、
ある子供は、安全で心地良い緑地にて、笑顔ですべての恵みを享受し豊かさとともにあり、
またある子供は、迷い道に踏み入ってしまい、行けども行けども・・・カラカラの砂漠を歩き続けるのみであったり、
絶望を深め、為すすべもなく立ち尽くしていたり、
また別の迷い道は、その厳しい環境故、一緒に歩いていた同志とも争いとなり、
争いやドラマがさらに厳しい状況を生み続けてゆくという、そんな連鎖の中で、
疲れきってしまっている様子であったり、
さまざまな、それぞれ分かれた生命の、クリエイションの展開がある。
けれど一つ、忘れてはならないのは、迷っていても、どんなに厳しい道のように思えても、醜い潤いのない世界に見えても。。。
依然、そこは母なる地なのであり、
「母」が実は見つめ続けているのであるということ。
もう迷い道でのドラマを欲しないと心から思ったときに、いつでも母は、
その源への帰還を手を挙げて祝福してくれるということ。
どこまで行っても、果てしない迷い道であっても、それもまた、母なる世界なのであり、
迷ったことへの罰などもあるわけがないということ。
「よく戻ってきてくれた!」という労いと、その個別の存在の体験した冒険をいとおしみ、尊び、
その勇気と成長を讃える愛のみ。
これは私たちが見る、外の世界に展開されていることでもあり、同時に、私たち一人一人の中でいつもおきていること。
その一つ一つを、自身が、その母の心とひとつとなり、迷いから拾い上げて労ってあげることで、
私たちは深い愛を知り、源とひとつとなってゆける。
どんなに遠く迷い込んだように見える側面でも、ただ、受け入れられるのを求めている幼子のようなもの。
癒しとは、それをハートでわかること。
ジャッジではなく、理解し、そのオリジナルな冒険を讃えること。
迷っているときは、見えないけれど。。。迷いから醒めることを選び続けてゆくことで、
全体としての自分が、さらに大きくほっと 息をつく。
世界を構成するすべてへの感謝!
*ここで「母」と書いてあるのは、性別と関連したものではなく、
すべてを包む 根源とつながるスペースのことです。