スピリチュアルなこと 徒然

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霊性の光

 

ここ最近の、いわゆるスピリチュアルという分野の
華やかさ、一般化された敷居の低さは、
目を見張るものがあります。

今では、瞑想とか、グラウンディング、センタリング、
ビジョン、第3の目、チャクラ、オーラなど、

少し前ならと言いますか、15年、20年前なら
「なに、それ?」「怪しい系?」と思われたこと、言葉、定義も
すっかり「普通」の生活の中に入って、収まりがよさそうです。(笑)

 

私もいわゆる、スピリチャルという分野で、お仕事として
活動させていただいているわけですが、
始めた当初、今から12年ほど前になりますが、

すでに「レイキ」などは認知され始めていましたが、
それでもそういうことを「お仕事」にしているということでは、
今ひとつ、納得してもらえたり、ピンと来てもらえたりが
今ほどなかったように思います。

また、瞑想もゆるりと自己流で、ずいぶん前からやって来ていますが、
以前は他の人にも「瞑想している」ということすら、言わないことが
多かったです。

そして、実際私がはじめて「霊気」という言葉に触れたとき、
それはオーストラリアはアデレードの、ふと歩いていて目に留まった
看板の文字でしたが、

かれこれ20年前のそのとき、
「なんだかこれ、怪しい~。。。」と、私も思ったのでした。(苦笑)

 

けれど、それを直接のきっかけとしてではなかったですが、
内なるところ、ハートに「霊気」とはっきり書いてあるのを
ドイツに来てから、なんの脈絡もないときに「見て」、
そのあまりのクリアさに驚いて、そこから一直線という感じで、

学びたいこと、知りたいこと、魅惑されることがひっきりなしで、
はじめてから12年が経過した今まで、ある意味、夢中で歩いてきました。

そして、一周を回ったような、
そんな感慨を持ちながら、同時に今、新たな出発として感じてもいます。

人生という、螺旋が尽きることのないもの、
上昇、下降というより、常にスパイラル状に動いて、
内に含む変容が、それ自体で表現してもいるということ、

それは「スピリチュアリティ」の中にもあり、

とどまることなく、いつも変化を促してきます。

そんな、とまることのない生命としての動きをはらむものとして、
見てゆくのはもちろんですが、

そこにある、「普遍のなにか」を探したい、
そういう思いもやはり強くあり、

その揺れ動く中で、自分が体験したり、内なるところで体感したり、
Aha!として知覚したりを通して、

さまざまなものが有機的に、今の「あり様」を創造しています。

そしてその中間的なところから、少し振り返ったりもしながら、
このテーマ、ちょっと難しいなと思うテーマについて
書いてみたくなりました。

テーマ自体が、かなり漠然としていますが。(笑)

 

私がスピリチュアルといわれるもの、スピリチュアリティとは?と
自分の世界から考え眺めてきたもの、
それについて、取り留めのない形でしか、書くことができないのですが、

今見えている、私なりの風景として、ごくプライベートなものとは
承知しながら、
そして、そこに「落ち」的なクリアさがないとは思いますが、
徒然に~。(笑)

 

えっと・・・

スピリチュアルというと、どこか「超感覚」の世界とリンクするところもあり、
それをどう伸ばすかということも、ひとつの興味となりやすいとも思います。

いわゆるチャネリングとか「見える」「聞こえる」ということですね。

私自身も、アチューンメントをご提供してきているのですが、

そのテーマに関しては、

やはり、その個人のもともとのものが大きくあると思います。
潜在化しているものが、あるきっかけを元に大きく開花する、
これはありますが、

植物の世界でも、種から、その種に沿ったものが育ってゆくわけで、
それと同じですね。

小さな小さな種でも、そこに情報レベルですでにあるものが
現実のレベルでの太陽光、水、土壌などの必要なものを得て、
その情報のままに成長してゆくということです。

トマトはトマトになり、
桜の木は桜の花を咲かせ、サクランボを実らせます。
薔薇は薔薇、ひまわりはひまわりとして花を咲かせます。

私たちも潜在として、同じ可能性をみな、持つわけですが、
それがイコール、まったく同じ表現とは限りません。

ある人は色でいえば「ブルー」を表現したり、
お花でいえば、「薔薇」を表現したり、「かすみそう」を表現したりです。

だれでもが宇宙の光線としてのいずれかの色を表現しているとしても、
同じ色とは限りませんし、そこにさまざまなシェードもあります。

お花もほんとうにさまざまな形態の花弁や色を通して、表現されています。

そうして託された天分は、たとえば音楽家なら、もともとのその能力を、
日々絶やさない練習、精錬によってさらに伸ばしてゆくように、

天分と努力、それはどんなものでも
花開かせようと思った場合に、実際必要な要素だろうと思います。

スピリチュアルな分野でも、そういう意味でのオリジナルな天分を、
それプラス、どう伸ばしてゆくのかという、後天的な影響やタイミングも
そこに入ってくるわけですね。

私の先生もおっしゃっていたのですが、

「誰かが魔法の杖をチャララ~ンと振ってくれるようなものではありません。」

 

そして、人として、こうして現実界に生まれて肉体をもって生きるということ、
そこにあるチャレンジは、

本来すでに持つ、その「種」とか「真実」というものと、
「真実」といわれはするけれど、その実「真実ではないたくさんのもの」。

それを識別しつつ、そして時には真実ではないものにもどっぷり浸かって体験し、
最終的に中庸を学んだり、寛容の精神を養ったりという、

顕現意識では求めないような中に、大きな力で放り込まれて
実地で体感してゆくこともあると思います。

本や他者の体験から学ぶことはできても、
ハラのレベルから納得するためには、やはり実践、実体験というものの方が、
強烈に働きます。

識別しつつも、そこに冷たさがあるのではなく、寛容や赦しという
慈愛が注がれるためには、

人間も、石がガラガラと回されて角が取れて丸くなるように、
痛みの経験なども多々あったりします。

スピリチュアルな能力もまた、それと同じで、
もともとの能力プラス、そこに人間存在としての痛みから派生し熟成された、
「温かさ」が入ることで、
その能力がほんとうに活かされ、人間としての輝きも増すように思います。

 

手っ取り早くて、華々しさで目を引くものに
あまり気を取られ、足をとられると、

それら、必要なことをじっくり成すという
落ち着き、忍耐、総合的な視点が損なわれることもあり得ると思います。

今の、こうして百花繚乱の様相で、「スピリチュアル」なものが
広がっているときこそ、

同時に、腰を据えた、地味だけれど、本質的なものに栄養を与えてゆくような、
近道だけを探そうとしない、実直な努力や心構え、自分自身や世界を
大きく捉えてゆくということが、
とても大切になっているのではと思います。

 

そういう意味では、スピリチュアルって、フワフワしたものではなく、
厳しい精錬も経て輝く強いものでもあるんですよね。

そしてそれは「スピリチュアル」と言わなくても
真剣に精進する世界に共通する、「エッセンス」とも言えますね。

 

  • 2016 09.01
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